家を建てるということ。借りるということ。
家を建てるということ。借りるということ。
京都に行ってきた。
いろんなことを考える旅だった。
宿は俵屋。
吉村順三の設計だと聞けば、それだけで足が向く。
何が特別なのかは説明できないが、静かに「時間が積もっている」のがわかる宿だった。
翌日は横内敏人氏 設計の新松庵へ。
日常のなかの非日常感
素材と余白が、何かを語っている気がした。
四君子苑に立つと、言葉が静かになる。
吉田五十八の手がけた母屋は、余計なものを削ぎ落としながら、
和の美意識とモダンな感覚が見事に溶け合っている。
こういう場所に身を置くと、「建てる」とは何か、「残す」とは何か、改めて考えさせられる。
さて、先述の名建築を引き合いに出す気はないが
よくある議論として
家を建てるのは得か、借りた方が得か。
誰もが一度は考える問いだろう。
でもそれは、「生きることを預かりものとするか、それとも引き受けるか」と自分に問うようなものかもしれない。
負債と考えれば、家は重い。
なるべく安く。なるべく身軽に。
いつでも引き払えるようにと、支払いの少なさを優先する。
その考え方には合理がある。
賃貸もまた、一つの賢さだ。
だが、資産という考えもある。
それは「お金になる」という意味ではない。
時間に耐えうるだけの美しさを持った場所を、人生に据えるという意味だ。
俵屋や四君子苑のように。
そこにはもう、手に入らない木材があり、今では数えるほどしかいない職人の技がある。
一朝一夕ではできない「たたずまい」がある。
住まいというのは、費用コストや損得ではない。
広さでも、設備の多さでもない。
この世に生を受けて
そこに「どういう思いで暮らすか」だ。
すぐに壊れる家を建てるなら、借りた方がましだろう。
けれど、十年、二十年、そして五十年と、味わいを増していく家があるならば、
それは建てた者にしか得られない時間になる。
これが私なりの解である。