昔書いたブログをアップしてみよう。2012年8月29日
テーマ「日曜日の図書室」
先日、久しぶりに1960年代に書かれた伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」が本棚の隅にあったので再読してみた。
その中に東京の景色についてのエッセイがあった。20代の頃、読んだのだが当時は印象に残っていなかったエッセイ。建築という仕事に携わる者としては身につまされる話。以下抜粋
形式的な美しさなんて少しもない。そもそも外観なんてどうでもいいのではなかろうか。
家の外側というのは、つまり部屋の裏側であるに過ぎない。
だから中にあって具合の悪いものは
全部外にくっつければよいという考え方なのでしょう。
雨戸の戸袋が出っ張ってついている。
トイレの空気抜き、風呂場の煙突、雨樋、ガスのメーター、
牛乳箱、郵便受、屋根の上に物干し台を作る、
テレビのアンテナを立てる、犬小屋を置く、
電線を収めた鉛管や、ガス管が壁の外を這っている、
お上も協力して電柱を立て、電線を張り巡らし、
交通標識を立ててくれている、
玄関にはNHKの聴取者章、電話番号、丸に犬と書いた金属板、
「押し売り、ユスリ、タカリは110番へ」とい貼り紙、
防犯連絡所という木札・・・・
以下延々といかにごちゃごちゃと汚いものを付け足して
これでもかと街の汚さを羅列して・・・
「これがわれわれの街なのです。」「思い切ってスラム調で統一してみました」穢さがイッパイ!
そもそも外観なんてどうでもいいのではなかろうか。
家の外側というのは、つまり部屋の裏側であるに過ぎない。
だから中にあって具合の悪いものは
全部外にくっつければよいという考え方なのでしょう
伊丹十三節炸裂。
そしてまた、時代は更に30年ほどさかのぼり1933年。
谷崎潤一郎の「陰影礼賛」も久しぶりに読み返してみました。
その中の〈普請道楽〉について
今日、普請道楽の人が純日本風の家屋を
建てて住まおうとすると、
電気や瓦斯(ガス)や水道等の取附け片に苦心を払い、
何とかしてそれらの施設が日本座敷と調和するように
工夫を凝らす風があるのは、
じぶんで家を建てた経験のない者でも、
待合料理屋旅館等の座敷へ這入ってみれば
常に気が付くことであろう。
〈略〉
近代生活に必要な暖房や照明や衛生の設備を
斥ける訳には行かない。
で、凝り性の人は電話一つ取り附けるにも頭を悩まして、
梯子段の裏とか、廊下の隅とか、
出来るだけ目障りにならない場所に持って行く。
その他庭の電線は地下線にし、
部屋のスイッチは押入れや地袋の中に隠し、
コードは屏風(びょうぶ)の蔭を這わす等、
いろいろ、考えた揚句、中には神経質に作為をし過ぎて、
却ってうるさく感ぜられるような場合もある。
まさに普請道楽。
池波正太郎の『男の作法』
「引き戸」
開口部が引き戸でなくドアであったら、
人が出入りするたびに
ドアが部屋の中に食い込んでくることになり、
それだけ部屋が狭くしか使えない。
その点、引き戸なら、部屋に食い込んでくることがなく、
部屋をその分ひろく使える。
つまり引き戸は、狭い国土に人口の多い日本の住まいには
打って付けの、まさに日本家屋の知恵の所産ということができる。
宮脇檀の「いい家の本」も一読の価値あり。